築城
竜松山城は南北朝時代の豪族山本忠行が櫟原荘(一之瀬に改める)に移り住み城を構えたとの説がありますが、定かではありません。竜松山城は、天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻略により落城、城主山本主膳守康忠氏は翌年藤堂高虎に忙殺されました。
城の名称
二代目の城主(山本忠継)が城郭を改修した時に、二の丸入り口に地を這うような竜の形をした一本の老松があったため呼ばれるようになったともいわれています。
築城年代
応永34年(1427年)に時の将軍足利義満の側室を日高の南部までに出迎えていますので、580年前には市ノ瀬に居住して本拠としていたと考えられます。
城の特徴
城は102.7mの山頂に築城され、中世の山城形体と「空堀」の一部が現存しており、本丸からは富田川の流域が望め城主になって眺めることができます。対岸には平時の居宅で下屋敷「坂本の付城」がありました。また、本丸東側には山本氏一族の供養塔・剣の碑と山本氏の軍師であったと云われている、桂紀之助の墓標が建てられています。
周辺の史跡
城山周辺には山本氏にかかわる「山本氏一族の群墓」「一乗寺」「春日神社」があります。
山本氏の勢力
室町幕府の奉公衆を務め、熊野を代表する有力な将軍の直属軍で熊野八荘司一人でもありました。領地は市ノ瀬を本拠に富田川流域一帯、田辺の一部と日高郡の一部2の7箇村でありました。